『野火』

『野火』

英題:Fires on the Plain

2014年 日本 87分

原作:大岡昇平

監督:塚本晋也

音楽:石川忠

 

初見:2015年7月25日 シネマ・ジャック&ベティ

 

8月15日は終戦記念日。

夏のイベントやレジャーも楽しいですけど、この日くらいはちょっと戦争のことを考えてみたいオレンジです。私自身、もちろん体験者じゃないですが、父が死体の中を逃げたことや、ひもじくてしかたなかったと、当時のことを話してくれたり、母が乳幼児期の記憶としておばあちゃんの背中におんぶされてすごく熱く煙い中を逃げたということがあったと、(子供の頃の夏休み、おじいさんおばあさんに戦争体験を聞いてみましょうと、でも、私は少し遅くに出来た子供だったので父母の体験談を)聞きました。

ちょっと脱線しましたが、とにかくこんな事が日常になる世界になってはいけないという思いにさせてくれるのがこの『野火』なんです。

 

さて、『野火』。

敗戦間近の頃のフィリピン、レイテ島で肺を患った田村一等兵の見た戦争の、名誉の戦死だとか美談になってしまいかねないような部分をすっかり削ぎ落とした、一般兵の現実を描いた作品です。

精力的に全国各地の映画館を訪問していた監督いわく、この作品を通して戦争を追体験してほしい、戦争って本当に嫌だなと肌に感じてほしいとのことで、目をそらしたくなるような描写もたくさんありますが、それをアトラクション的に…というと遊びのようでふさわしい言葉ではないかもしれませんが、強く強く〈体験〉させてくれます。

 

まず初見時の感想は「人間が人間じゃなくなる。」という一言でした。

驚いたことにこの『野火』を観た後、古い作品もあるということで、市川崑監督の『野火』(1959年)を観たら、1959年当時の映画のキャッチコピーとして「人間が人間でなくなる」と、全く同じ言葉が使われていたので、これは、本当にそれが狙いで作られたのだと感じました。

どう人間でなくなるのか?あらゆる意味で人間でなくなります。

砲撃に遭った兵は、一瞬で異形のものとなり人間でなくなる。飢え乾き、行き先を見失ったものは生ける屍となり、人間でなくなる。生き残ったものは、誰が味方なのかすら思考できなくなり心が人間でなくなる。

こんな具合に、自分を含め、皆の人間らしさが失われてゆく中での田村の絶望の歩みが描かれています。

 

そして、最初から最後まで作中に流れる不条理感。

なぜ人と人が争うのか?味方と味方ですら争うのか?ここまで飢えなければいけないのか?

自分の目の前で自分と変わらぬ人間がいとも簡単に倒れていくのはなぜなのか?それを見ているだけなのはなぜなのか?また、その屍をまたぎ、歩き続けるのはなぜなのか?

この戦争はいったい何であるのか?

こういった疑問が始終ついて回ります。

孤独な道中で、田村が他の隊の伍長たちと合流する場面があり、ここでパロンポンへ向かえばセブへの船が出ることを知らされ、行動を共にすることになるのですが、その中の一人が別の場面で、ついてくるかこないか「あんたは自由だぜ。」と言われます。自由という言葉はこんなに心細く絶望にあふれた言葉だったろうか?と思わされる瞬間です。

他にも、生きるか死ぬかの状況を共有しているにもかかわらずけちな商売をする安田や、そんな安田に依存する永松。

そして監督のおっしゃっている美しい自然と、そんな美しい景色の中に血が流されているというコントラストで、見ていて簡単に「何やってんだ?」と。

こういった不条理がこの映画には溢れているのです。

 

だけど、意外にこういう不条理感は他人事ではなく、問題の大小を問わなければ身近でも感じることなんですよね。小さな喧嘩。出し抜いてやろうといういやらしさ。人よりより良い思いをしようとする心。すべて戦争への小さな一歩になるんですよね。

だから、私たち個々の人間が常に自分は不条理であると思って生きることが、不条理の向こう岸へ進むのには必要なことなのじゃないかと思います。

 

このタイトルで語るのはちょっとずれてしまいますが、1959年版の『野火』の方が、そんな〈普通の人〉が抱えている不条理感や、非常時の静かなる狂気が際立っているような気がします。

 

一方、塚本監督の作品の多くでそうであるように…と、私が感じているだけなんですが、技術ではなく、音響によって映像を3Dとしてみせる技法があり(と、これも勝手に思っているだけです(汗))より〈体感〉できるのが2014年の『野火』かと思います。

 

なんだか結構、自分の中で2作観ちゃったから二つで一つの感想になってしまって、ごちゃ混ぜで申し訳ありません。

でも1959年版を観るきっかけになったのが、2014年版なので、こちらをメインに書かせていただきましたが、両方観ると更に理解が深まる二つの『野火』を、このブログに目をとめてくれたあなたは是非!

 

「たといわれ死のかげの谷を歩むとも ダビデ」

(原作、冒頭より。)

 

以上、『野火』についてでした。

『紳士は金髪がお好き』

『紳士は金髪がお好き』

原題:Gentleman Prefer Blonds.

1953年 アメリカ 91分

監督:ハワード・ホークス

 

6月はマリリン・モンローの誕生月、7月はふふふ~んで、8月5日は命日です。

そう、6月に思い立って書こうとしてたのに、私事ですが生活リズムに変化がありまして、ただでさえ少ない更新が更に更に遅れ、マリリン・モンローの誕生月を逃してしまい、言い逃れのこんなタイミングにしてしまいました。

でも、せっかく書けたからマリリンを観よう!

 

没後56年、彼女自身の人生に関しては、不遇であったり、謎の最期に関して今なお囁かれる陰謀だとかなんだとか…

色々あるけれど、全部まとめてマリリン・モンロー、ノーマ・ジーンが好きだ。

そんな彼女の出演作の中で私が最も好きなのがこの『紳士は金髪がお好き』。

男前なジェーン・ラッセルとの対比でその柔らかさや可愛らしさが際立って、目に麗しく、歌声は『ショーほど素敵な商売はない』の中で「口にマシュマロを含んでいるような」と表されるくらいにソフトで、かといってメリハリがないかというと全くそんなことはなく、非常に耳に心地よいのです。

そんなマリリンの魅力がいっぱいのミュージカルコメディ『紳士は金髪がお好き』。

どうぞおつきあいください。

 

ローレライ・リー(マリリン・モンロー)とドロシー・ショー(ジェーン・ラッセル)は親友同士のショーガール。親友同士とは言っても性格も恋愛観も正反対で、お金を使うことに気を遣う相手では愛もへったくれもないという感覚であるローレライに対し、ドロシーはお金よりもロマンティックな恋愛を求める女性。

ローレライの婚約者ガスは財産家の息子で会う時にはいつもプレゼントを欠かさない、ちょっとヌケた男性。ローレライとパリで挙式を行う予定が、ガスが一緒に行けなくなったことで、監視役としてドロシーを伴い、女二人の船旅となる。

が、ローレライを良く思わないガスの父親がさらにマローンという探偵を雇い泳がせる作戦でもあった。

そしてさすが豪華客船、乗客も様々で、ローレライが放っておくはずがないダイヤモンドの鉱山を持っているビーグマンという富豪の老人が現れる。早速色仕掛けに走るローレライ。一方ドロシーは正体を知らずにマローンに好意を抱いてしまい、こんな状態で平穏に終わる訳もなく…というお話。

 

最初から最後までマリリン・モンロー、ジェーン・ラッセル双方の魅力と、ユーモアと歌にあふれていて、非常に明るく、また、ちょうどそんな風に変わってゆく時代背景などもあったのでしょうか?女性のたくましさというものも感じさせられます。

 

それを強く感じるのが、ドロシーとオリンピックチームの青年たちとのやりとりの中で歌われる「Ain’t there anyone here for love.」

簡単に言うと「力強い男性に頼りたいけど、楽しませもして欲しい。」的な守られるだけの女じゃない!という歌で、それだけだと身勝手な女にしか感じませんが、ジェーン・ラッセルが歌うとすごく頼りがいのあるイメージから可愛げのある女性へと見る目が変わります。

ちょうど良いんでしょうね、いわゆるツンとデレの割合が。

そのちょうど良いツンデレがマローンに対しても発揮され、親友を傷つけるやつは誰であろうと許せないのに、あなたは…な揺れ具合も素晴らしいです。

 

ローレライは良い子で、頭も悪い子じゃないんだけど詰めが甘いところがあってドロシーのために乗客リストで「執事付き」の乗客をチェックして、有名な資産家を自分たちのディナーテーブルに呼ぶのだけど大失敗。ドロシーの「How am I do?」が笑えます。

また自分は百戦錬磨だと信じてダイヤモンド王を上手くたらし込めたものの、二人で会話抜きでは誤解される場面を写真に撮られていたり、そのネガを取り戻す計画もどこか見通しが甘く、子供に助けられたり、とんでもないパーティーを開いたり。

そのまごう事なきコメディエンヌぶりはぜひ映画を観て堪能してください。

個人的には、船の客室に入って発する二言目の言い方の抜けた感じに注目していただきたいです。

 

そんな波乱の船旅も終わり、パリで早速ショッピングを楽しむが、また問題が…

行く当てをなくした二人はやむなく、またパリでキャバレーのショーガールへと返り咲き(?)。思い切った切り替えがサッパリしてて良いですね。

そんなローレライの元に話をしたいと訪ねてきたガスへの素っ気ない態度、そこからまるで本心を当てつけるように歌われる「Diamonds are a girl’s best friend.」。

この時のマリリンの輝きはダイアモンド同様、永遠ですね。(ダイアモンド持ってないから、どんな輝きか知らないですけど(汗))

マリリンのプラチナブロンドにピンクのドレスが最高のコンビネーションで、本当に、シンプルに、是非観てください!とお願いしたい気持ちでいっぱいです。

 

さて、そんな最高潮を迎えた後、ローレライの元へ警察が着たと支配人が大慌て。

先ほどの「問題の中の」「もう一つの問題」の裁判になってしまいます。

ここでドロシーが一肌二肌脱いでローレライに化けて、歌って踊って、法廷は大混乱になるけれど、ドロシーのある告白で温和に一件落着。開廷前とは打って変わって優しさいっぱいのハッピーエンドに。

 

一方ローレライにとってはここからが肝心。ガスとの結婚を認めてもらうためにはガスの父親の承諾が必要。それはなぜかと言えば、ガスの価値はイコールガスの父親の資産だからである。

そのお金に執着する考え方がたくさんの問題を引き起こしてきた原因で、なおそれを説明しようとする彼女はとんでもなく感じられるけれど、意見を聞いたらやけに納得。確かにそういう理想もあるけれど、現実はどうにもこっちだなぁと思わせるもの。そんな彼女の見事な論理にガスの父親も感心し、こちらも一件落着。

晴れてすべてがハッピーエンド。

 

と、コメディなんですが、笑いのあるドラマとしても十分楽しめる傑作です。

ぜひぜひ、この機会にマリリン・モンローの魅力を体験してみてください。

 

以上、『紳士は金髪がお好き』についてでした。