『八甲田山』
英題:Mount Hakkoda
1977年 日本 169分
監督:森谷司郎
音楽:芥川也寸志
「雪とは一体なんなのだろう」
1902年(明治35年)、本年2019年より117年前の今日1月23日は青森歩兵第5連隊が八甲田山での雪中行軍演習に出発した日です。
なので、今日は映画『八甲田山』の話など…。
…とは言ったものの、言葉で語り尽くせない気持ちで、これは観ていただかないと本当にわからないかと。好きな映画で何度も観ている私でも毎回心の中の原野が真っ白になります。だけど、こういうことが事実としてあったのだなと思うと絶句というか、それでも、人間として登場人物たちのようでありたいような、その結果はとても残酷なような… と、感じます。
そんなことを感じながらも、部屋の中で完全装備で温かい飲み物片手にこれを書いている自分を少しばかり恥ずかしく感じてなんだかなと…。
1901年(明治34年)、日本とロシアは切迫した状況にあり、日露戦争のまさに寸前でした。
日本と違いロシアは極寒零下数十度の中でも戦うことのできる国であり、そのロシアと戦うにはそれと同様のスキルを習得することが必要でした。
その他様々な過程を経、上層部は雪中行軍の演習を提案します。が、師団の命令ではありません、「雪の八甲田を歩いてみたいとは思わんか?」と青森歩兵第5連隊の神田大尉と弘前歩兵第31連隊の徳島大尉があくまで志願するというていで演習をすることになりました。
神田大尉は雪中での登山経験のある徳島大尉の元へ訪れ、装備などの資料を参考にさせてもらいますが、そこで打ち解けた二人の間に「雪の八甲田のどこかで。」という大切な約束がなされます。
命がけの雪中行軍、この、どこかで、という言葉の持つ意味合いは大きく、つまりは互いの無事を願う言葉なんじゃないかなと、私は思っています。軍隊というのは(この当時は特にでしょうが)死をもいとわない覚悟でいなくてはいけない。その軍人が、そう気負わず生きていましょうなんて簡単には言うことはできないことでしたでしょうから。
その後、年明けの1902年(明治35年)1月末、行程も部隊編成も対照的な二隊が各出発地から出発、青森5連隊は途中からたった2キロの道筋が開けず、雪の中で彷徨うことになる。
この話に関して、単純に司令部が悪いとか、誰が悪い、そもそも戦争が悪いとか、そういう感想もあるんですが、そうじゃない、誰も悪くないんです。きっと。
時代、戦争寸前の状況下であること、恵まれなかった天候、大自然、疲労や寒さにより鈍った判断。それらの悪条件が重なったところで起きた悲劇なんだと思います。
そしてこの時代の人間の痛々しいまでの純粋さも、この状況においては仇となり更に大きな悲劇になることに拍車をかけてしまったのでしょう。
本当に、今の時代に適当に生きている自分を省みると、簡単に涙を流すことさえはばかられるような映画です。
中でも、幼少の頃に離ればなれになった兄弟が各部隊におり、八甲田で出会うシーンでは、自分自身の体験とも少々重なり胸が詰まるような気持ちを抱きます。
時折、様々な季節の穏やかな風景、それを過ごした少年時代などの映像が挿入されます。こういったシーンにも大きな自然と人間の密接な関係や、ある場面での台詞である「人間ほど風土に影響されるものはない。」と言った言葉やその自然に挑む結果になってしまった、今の自分と自然の関係性が表されていると思います。
そして、安全を配慮して行われたとはいえ、この雪中行軍を再現した撮影も3年がかりでされており、この行軍のシーンに参加した役者さんたちもまた戦友と言えるなぁと感じています。
台詞を言おうにも口が回らない北大路欣也さんに高倉健さんが、しゃべる前に口の中にチョコレートとブランデーを含むと良いと教えたとか、棺の中の神田大尉との対面のシーンで、白い息が出てしまうので呼吸を止めていたので、まさに死にそうだったとか、それを見た高倉健さんの涙は本物だったとか。
また、白い地獄の中で我を失い、服を全て脱ぎ捨ててしまう兵士を演じた方は、身体にワセリンを塗り、そのシーン撮影に挑み、撮り終えるとすぐさま待機用のバスで手当を受けるという、聞いただけでもどれだけ過酷な撮影であったかを感じ取れるエピソードがたくさんあります。
もう役者さんにしても撮影そのものにしても、こんな規模の映画って取れないんじゃないかな。
前編に流れる芥川也寸志さんの音楽も、非常にこの映画の性格を理解されて造られているなと思います。
こんな事があった、そういった人々の犠牲の上に今の自分たちが生きている、今があるという事実を確認するためにも、とにかく日本人なら一度は観ておきたい映画です。
以上、『八甲田山』についてでした。