『リバーズ・エッジ』

『リバーズ・エッジ』

英題:River’s Edge

2018年 日本 118分

原作:岡崎京子

監督:行定勲

 

初見:2018年3月6日 TOHOシネマズ上大岡

 

若草ハルナは冷めてはいるが、ごく普通…空虚な部分を隠し、周りとそれなりに上手くやっている…そんな人間として本当にごくごく普通の女子高生。

恋人の観音崎はお調子者でちょっとキレやすいややヤンキー寄り。この観音崎がいじめのターゲットにしているのが山田一郎という、原作で語られるに、攻撃性を誘発する、謎めいた美少年。山田もまた秘密を抱えているが、口数も少なくあくまで普通を装って生きている。

ある日、観音崎に学校に閉じ込められた山田を助けに行くハルナであったが、それがきっかけで山田の“宝物”だという河原の草むらの中にある誰のものともわからない死体の存在を知る。

その死体を中心に、山田と同じく、その死体の存在を知っている後輩でモデルの吉川こずえとも知り合い、死体はもちろんのこと、人格的な秘密なども共有するようになる。

しかし、秘密を持っているのはこの三人だけではなく、観音崎やハルナの親友のルミたちも人間関係が複雑で残酷で、と、状況だけを説明するならそんなお話です。

 

原作の漫画が好きで、自分の中では漫画で十分完成しているものだったのでちょっと迷ったけど、やっぱり好きなので観に行きました。90年代前半が詰まってますね。こういうちょっとバイオレンスが散りばめられていたり、倦怠感や不健康な感じが美しい…という雰囲気がありましたね。そう感じざるを得ない時代でもあったというか。

今の方は一部かもしれませんが、一生懸命!がんばる!前向き!と目立つ部分ではそんな感じですよね。うん…そう考えると、捨てられた世代だったのかな。

でも、捨てられる存在というのはいつの時代にもあるものであり,そこに目をかけてあげられるかあげられないかであり、そこに目をかけることが出来ていた時代でもあったのかもしれません。

あとは若さなんかも関係あるのでしょうか?広い視野で物事を見ておられる方など、物事の本質がわかっているのに、守られている立場であるが故に身動きが取れなくて、もどかしくてたまらない思います。

 

このストーリーに出てくる“死体”というのは、捨て去られ思い出しもされない究極的にむなしい存在のメタファーなのかな。それを警察に届け出るでもなく傍観し、価値を見いだす山田とこずえ。

こずえがこの死体について語る言葉があるのですが、簡単に言えば己も他者もザマアミロ、ということで、どいつもこいつもがいずれ成り果てる行く末というものを意識させられます。

ハルナはそんなこずえや山田をさらに傍観する立場で、面倒にさほど面倒とは思っていない様子で巻き込まれるます。きっと他人の言動、思想に鑑賞しないある種の冷たさと、だからこそどんな人であろうと関われる柔軟さを持っているように感じます。或いは知らないから、戸惑うこともないのか。

 

また、吐き出すという行為と苛立ち。

モデルであるこずえは大量に食べたものをトイレで吐き出す、観音崎は彼なりに抱える苛立ちをいじめや性欲という形で吐き出す、ルミは望まない妊娠をしてしまい、父親の可能性のある人間の一人である観音崎へ観音崎の認めたくない部分を嘲笑うようにののしる形で苛立ちを吐き出す、そんなルミの姉はその滑稽な姿をやはり嘲笑うことで、自分とルミとの生き方の違いに感じる劣等感を吐き出す、山田の秘密を秘密にしておくための彼女、田島カンナは、山田とハルナの関係を誤解した末にハルナの住む団地に火を放つ。

という具合にみんな苛立っている。

原作のモノローグに“惨劇はとつぜん 起きる訳ではない そんなことがある訳がない それは実は ゆっくりと徐々に 用意されている 進行している (中略) ぱちんとはじけるように 起こるのだ”とあります。

何かしらの苛立ちを隠して冷静なふりをしたり、強いふりをしたり、楽しいふりをしたり、そうやって体面を繕う“ふり”を重ねていても、それを破る思わぬ刺激がもたらされることですべてがバラバラになる、そしてそれは我慢してきた努力量からは考えられないほど安易だったりするんですね。

でも一度はじけると、空っぽになり、ひととき、清々しい時が訪れ、また血反吐を飲み込むような日々が積み重なってゆく。

そんなことを繰り返して、だんだん器用な大人になってゆくのではないかと思います。

それは悲しいことではないけれど、人によっては全くの嬉しいことでもないはずで、そんな器用な生き方を覚え、“抜け出せた”時に彼らは河川敷の忘れられた死体のような存在になるのでしょう。その時に振り返って懐かしく思い出せるものがこの話の登場人物たちにとっての青春なのでしょう。

 

インタビュー形式の語り以外は、セリフやストーリーに映画のオリジナルはなく、各シーンも原作漫画に忠実に再現されているところも多く、原作から入ったものとしては良かったです。

それから映画を見て初めて感じたことは、ハルナがどんな大人になったのかな?ということですね。それほど、思った以上に、二階堂ふみさんは若草ハルナでした。

あ、エンディングの曲が小沢健二さんだったのも懐かしかったです。

 

ほぼ、原作への感想になってしまった気もしますが…これで。

 

以上、『リバーズ・エッジ』についてでした。

『完全なる飼育』

『完全なる飼育』

英題:The Perfect Education

1999年 日本 96分

監督:和田勉

 

契約している配信サービスの見放題コンテンツにありまして、ええと、スケベ心がなかったかと言えば、嘘はなるべくつきたくないので、まぁ、ありました。

しかもですよ、ここは言い訳じゃなく、小島聖さんだし竹中直人さんだし、これ、私、観るしかないなと。

でもやっぱりこれも素直なところ、作品を知ってても借りるのは抵抗あるんですよね、で、ちょっと家族で観る物ではない映画がなぜか配信サービスには多いので、みんな同じ気持ちだからかな、と思っています。

 

そんな『完全なる飼育』、実話がベースになっているそうでして。

女子高校生を誘拐して鞭・鞭・飴・鞭・飴・飴と使い分けて徐々に自分に依存させてゆくお話です。

 

まず、これが良かったセリフ。

とっととレイプしなさいよと。と自分を拉致した男、岩園に詰め寄り、あなたは処女でしょう、こんな事で良いんですか?と答えられ

「良くはないけど帰りたいから言ってるのよ!」

といった邦子の “良くはないけど” の言い方が、本当にやるならさっさとやって解放してよ!!!という苛立ちと諦めからくるヤケクソなトーンが非常に心に響き

「この状況で、もちろん絶対良くはないけど、もうこの際そうだよね!」とわからないでもないというのは適切な言葉ではないかもしれないけど、少々の共感を覚え、不謹慎ながら、フッと笑いが漏れてしまいます。

この一言を聞きたいために何回も10秒戻しした部分です。

 

最初こそ手錠をかけられ、岩園の外出時には足も縛られ口にはガムテープと、立派な監禁状態なのだけど、そういった恐怖やストレスを与えるのも、食事を与えるのも、会話や会話に伴う笑いを与えるのも岩園だけであるとなってくると、段々と心…は開いていたかな?とにかくそれなりに過去のことや家族のこと、他愛のないことを語り合うようになる。

とはいえ、これは岩園が拉致といった暴挙に出るものの、意外に単純な乱暴目的ではなく、愛のある心の通い合った完全なセックスをしたいという理由で“監禁”ではなく“飼育”を目的としていたからこそのこの展開なのだろう。

邦子の望むことは大方応じてくれるし、食事も好きなものを聞けば大急ぎで買ってきてくれるのだ。

そんなことの繰り返しの中、時折出かけると言って、邦子をまさに観察するようにアパートが望める廃墟から冷静な目つきで望遠鏡でのぞく姿はやはり変質的なものを感じます。

 

岩園の住む安アパートには、学校にもろくに行かず、煩悩まみれの毎日を過ごすパジャマの上着をズボンに突っ込んで着ている大学生の隣人の津田、階下にセールスに出かける前には目元に化粧を施す、健康に良いという怪しい水のセールスマンの森山、部屋で刀を振り回し暴力喫茶で働く女みどり、競馬場の清掃をする岩園も話したことのない川又にプロボクサー志望の若い男を可愛がる未亡人の大家さん咲子。

と、みんなちがって、みんなダメ、と言いたくなるような、くどいくらいに個性的な面々。

それを演じるのが、北村一輝さん、監督業が有名な塚本晋也さん、泉谷しげるさん、渡辺えり子さんなのだから、その辺は察しがつくと思います。

“玉滴”なる怪しい水を大家さんに差し上げる森山、謎の腹痛で病院に運ばれる大家さん、それを森山の配った水のせいだと思い込み森山を殴りに行くボクサーの卵野口であったが、実は牡蠣と何かの食べ合わせだったのを謝りに行くと、川又が介抱しているところだったりのドタバタぶり。

 

そんな安アパートにはシャワーしかなく、高校生、しかも女の子である邦子を気遣ったのか、ある日、岩園は温泉旅行を計画してくる。岩園との暮らしもすっかり当たり前のようになってきた邦子は素直に喜び、いざ旅行へ。

が、ここで邦子が思いがけない行動に出る。

手錠ごっこと称し、いつもとは逆に岩園に手錠をかけ、遊びだしたかと思いきや、着替えると黙って旅館を去ろうとする、どのくらいの時間なのかちょっとわかりずらかったのですが、多分かなりの時間が過ぎて戻ってくるんです、旅館へ。

これね、出て行ったのも帰ってきたのも邦子の真意な気がします。葛藤、脱力、執着、虚脱、退屈、虚無。

結局、人間の精神力なんてはかなくて雛の刷り込みではないけれど、目の前の他人が他人でしかも憎むべき対象であっても、いつしか見慣れてくると信用の対象になり得ることもあるのかなと。すべてがすべて、このケースに当てはまりはしないだろうけど。

そんな脆く、明と暗の狭間で自分の今取っている言動は自分の自我からのものであると無意識に自分自身を勘違いさせてなんとか生きていられる人間もいるんじゃないかな?というか、普通の苦難に直面しているだけでも、こんな感じで生きている人は結構多いかもしれないなと感じました。

で、「死んじゃったらいいけど、首が一生回らなくなったらいやね。」

という旅行中のものではないセリフがあって、ここにかかってくるのかなぁ、と勝手に思っています。この状況の中、発狂できたらいっそ楽なのに、と。

 

この旅行から帰ってくると、二人の関係はいよいよ深いものになり、それは毎夜毎夜、最初は壁にコップを当ててその様子を盗み聞きしていた隣人が、いい加減いい迷惑だと思うほどに、というか、女の子は一度知ると一気に成長するんですね…なんて、なんか私も言いようがないですね…(苦笑)

 

でも、そんな日々がよりよい明日、明るい未来に繋がるわけもなく、邦子の保護並びに岩園の逮捕という形で終わります。この件で一番かわいそうなのは隣人の大学生。100万円の懸賞金付きで捜索願が出されていると知り、警察へ情報提供に行くのですが「数分前に保護しました。」と言われてしまうのです。あんなに眠れない夜を過ごしたのに!(笑)

(今回、これを見てくださった方が、この映画を観られる環境にあるのかわかりませんので結論まで書いてしまいますね。)

その後、邦子は事情を警察に聞かれてもあっけらかんと「誘拐されたんじゃなく私がついてきました!」「楽しく同棲してました!」「楽しくセックスしてました!」と答えるばかりで、その明るさに気味が悪いとさえ思うほど。

一方、岩園は「薬品をかがせて部屋に監禁しました…。」と正直に答える。

その後、弁護士との面会で「最高の夢を抱いて死刑になりたい。」と言うが、今回のケース、しかも被害者であるはずの邦子のその証言では2~3年ほどだろうと言われてしまい呆然と何かを話し出すが、ここは音がないので雰囲気を感じ取るだけの演出。

邦子もランニング中に拉致された川沿いの現場を見つめて淋しそうな表情を浮かべ…というラスト。

岩園にとっては飼育という意味では大成功だったが、非常に健やかに、不健康に育て上げられましたとさ。

 

これを心理学ではストックホルム症候群と呼ぶのだそうですが、心というものはどこへ向かってゆくのかの本当にわからないなと思いました。

 

ちょっと岩園さんには似つかわしくない赤いコートの使い方、良かったなぁ。

 

以上、『完全なる飼育』についてでした。

『鑑定士と顔のない依頼人』

『鑑定士と顔のない依頼人』

原題:La Migliore Offerta

(英題:The Best Offer)

2013年 イタリア 131分

監督:ジュゼッペ・トルナトーレ

音楽:エンニオ・モリコーネ

 

ジュゼッペ・トルナトーレの初デジタル作品。

 

優秀な鑑定士だが、頑固で潔癖なヴァージルという男の元に不思議な依頼が来る。依頼人はクレアという女性で電話でしか話せないが自分の屋敷にある両親の遺した骨董品を査定して欲しいというもので、最初こそ不審に思うが、 次第にその姿の見えないクレアに惹かれてゆくというお話。

 

プレーンながら真贋が幾重にも重なっており、物語を通して鑑賞者と監督との間に駆け引きが発生するような作品だなと思いました。ストーリーの中で懐疑心があれば鑑賞者も監督に懐疑心がわき、よって興味を惹かれ、魅せられます。

 

結果的には騙されるんですけど、その過程がモザイク画のように綿密で美しく、初鑑賞時はずっと作品とにらみ合っていました。

人と会うのが怖いというわりには、電話が終わるとアッサリ隠し部屋から出てきたり、長いこと人と関わらずに生きてきたとは思えないほど他者との接触にメキメキ順応してゆくクレアには違和感しかないし、クレアの屋敷で拾った歯車などの部品から貴重なからくり人形を再現するヴァージルの友人の男の「愛が芸術なら偽物もある」という言葉はヴァージルに向けられているのか鑑賞者に向けられているのか気になるところだったし、そもそも、ヴァージル自身、競売品の中に気に入った絵画があると、忍び込ませた古い友人ビリーに買わせ、確実に自分の物にするというクセもあるし、屋敷の前にある喫茶店の窓際にいるやけに記憶がよく、ことさら数字に長けている女性…。

その他の登場人物も含め、みんな、なにかしら引っかかりを残すんです。

 

で、どのパターンで来るかなー、いや、でも、しかし、こういう人が最終的に愛を知るというのも、この怪しさの中で意外に定石かなー、なんて、間違いたくないために答えの枠を複数確保する私のイヤらしいプライドも再確認させてくれました。

でも、そんなある意味での情報戦の中で己の経験の中から答えを導き出そうとして視野がかえって狭くなっちゃって惑わされるんだと思います、ヴァージルも。

「贋作者は印を残す」の言葉通り、印はあるのに、見落としちゃうんでしょうね。

それから単純に恋は盲目、堅物でも欲望に勝てなかったんですかね。信じたかったんや!信じたかったんや!と。

いやぁ、ちょろいね。結果がこれですよ。

 

ラストのプラハで入った思い出の店で「連れを待っている」といったヴァージルは時計を見ながら無重力を泳ぐように、美しくつややかな想い出を反芻して何を思うのか、その姿は序盤登場時とは全くの別人のようにヨレヨレ。

 

これも注目と言うべきヴァージルの“自分を見つめる女たち”コレクションである絵画の数々。

芸術を愛し、芸術で商い、芸術に裏切られた彼の顛末を彼女たちは嘲笑うだろうか、哀れむだろうか…。

 

で、この映画は芸術であったのか?

それは私だけの感想と言うことで。

これを目にしてくださった方の中にも自分だけの感想を持っていただきたいところでもあるので。

 

オークションシーンの自分も参加させられているような緊張感も見所です!

 

以上、『鑑定士と顔のない依頼人』についてでした。